2015年7月25日土曜日

生録:沖縄で会った人 聞いた話 知ったこと その1 石川真生さん ちょっと長い「はじめに」

沖縄にこだわっている。引かれる理由は、いくつかある。でも、「沖縄に行きたい」とはっきり思うようになった最大のきっかけは、2014年のはじめに連れ合いがあっけらかんと亡くなってしまったことだ。アメリカでまだ徴兵制がいきていた1963年、20歳で兵役を課され黒人兵として2年間、ハワイに駐屯した彼は、「沖縄のジャングルで訓練を受けたんだ」と言っていた。「え?沖縄にジャングルなんてあるのお?」と私は腑に落ちなかったのだが彼の死後、映画『標的の村』を観たとき、「あ、これだったんだ!」と合点した。

やんばるの森


彼は海兵隊員ではなかったし、ベトナム戦争に従軍させられることもなく19654月末に2年間の兵役義務を完了して除隊になった。同年38日は、米海兵隊がダナンに上陸しており、728日には陸軍の派遣も発表された。彼が所属していた部隊も戦地に送られ、その後8年間、激戦地に置かれた。入隊、あるいは除隊がほんの少し遅かったら、20代はじめにして人をあやめたり、逆に殺されたり、心や身体にいえ難い傷を負うことになっていた可能性は大きい。軍は人を殺せる人間を作る。ご本人にはさしたる自覚はなかったらしいが、兵役を終えて戻ってきた一人息子を目にして、彼の母親は「軍は息子に、なにをした」と怒り、涙をこぼしたという。

軍隊も好戦的なパトリオティズムも大嫌いだった彼が、時折口にする兵役時代の話は、兵士が知性をもつことを嫌い、本を読んでいるといじめる鬼軍曹や故郷の恋人から「ほかに好きな人ができたの」というわかれ話の手紙を受け取ってあれる同僚、いつもひとり静かにナンシー・ウィルソンのレコードが聞いていた仲間のことだったりしたが、彼の中で沖縄が特別の位置を占めているらしいことが感じられた。彼が入隊した頃のアメリカは、公民権運動がまだ上り坂に向かう時代だ。公然と差別がはびこるアメリカの空から一歩外に出た、はじめての外国。ほんの短期間ではあっても、そして心ならずも、沖縄に派遣された米軍兵士という客観的に見れば「招かれざる客」ではあったとしても、その地でひとりの若者が何かほっと救われるものを感じたらしいのだ。

沖縄を再び訪れることはなかったが、生涯、日本やアジア、メキシコが大好きだった彼が、当時、沖縄で、どんな街に立ちどんな風景を見たのか。おぼろげでもそれをつかみたくて、石川真生さんに会いたいと、思った。真生さんが金武やコザの黒人バーで働きながら写真を撮ったのは、10年も後のことだが、その写真には生々しい街の匂いとそこで生きた人たちの生命力がわきたっている。

真生さんにとって私は一介のフェースブック・フレンドにすぎなかったし、私が沖縄に行った頃、真生さんは伊勢市での「大琉球写真絵巻」の展覧会直前で身体も心もストレスいっぱいだったに違いない。それでも、「会いましょうよ」とメッセをくれた。とびあがるほどうれしかった。

取材というより、カメラと録音レコーダーを手にともかく自分のためにいい話を遺せたらと出かけた沖縄。ひとりで感動するだけではもったいない人に会い、話を聞くことができた。真生さんもとびきりのひとりだ。

真生さんは、人を正直にする。録音テープを聴きなおしてみて、やけになれなれしい口を聞いている自分にあせったが、そのまま書き残すことにした。インタビューの記録を通して、直球で生きる真生さんの根源的なパワーがうまく伝わることを願っています。(まとめ・写真:大竹秀子)

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